もうひとつの分数

分数といえば1/2、1/3という数字を思い浮かべる。全部を1として二つに分けたうちの一つ。という数字。

今回はもうひとつの分数の考え方。従来の考え方にプラスアルファーで考えてみて欲しい。宇宙を理解するには数字を追及しろと言われている。それぐらい宇宙・地球・他の惑星は数字でバランスが取られている。そしてその元の元の元の基盤として考えられているのが

宇宙 = 「1」(全ては一つ)
宇宙 = α = Ω (始まり無き終わり無き宇宙)

という大定理。

宇宙という想像もできない大きな存在は一つであると言われている。その中で新たな惑星が生まれ古い惑星が死んでいく。それは地球上における生物のような感覚で何かが死に何かが生まれるのと同じである。

そしてこの話にはもう一つの柱となる考え方が必要になる。それが精神世界と物質世界。全ての物事には目に見える物質と目に見えない精神がある。人間でいう体と意識。意識は魂とも言われ目に見る事は基本的にできない。これは有限と無限の話にもつながる。形あるものは全て無くなる。「諸行無常」「栄枯盛衰」という言葉がそれである。生き物の体は物質なので無くなる。車や建物、自然物もそう。でも魂である精神は死んでも無くならない。仏教で言う「輪廻転生」などの考え方。しかしこの二つはコインの裏と表のような関係で切っても切れず物質が生まれるとそこに魂が宿ると言われている。生き物じゃない物に魂なんて無い。という人も確実にいるが、スポーツなどで大事に使われている道具には魂が宿っていると言われている。見えない魂なので普段意識しないと認識することはなかなか出来ない。

この「宇宙は一つである」という柱と「精神世界と物質世界」という柱のもとにもうひとつの分数を見てみる。

一つである宇宙は全てが繋がっていて「1」である。0でもなく2でもない「1」。しかしこの考え方は早速問題が起きる。宇宙が「1」であると宇宙の意識はどうやって認識するのだろう?人間に置き換えると周りに自分じゃない人間がいるから自分という「1」がいると認識できる。「BESO」という名前があり、違う名前の人が自分を「BESO」と呼んでくれる。しかし全てが一つであると自分を自分であると何も認めてくれない。

無人島でいくら自分が「BESO」だと叫んでも何も起きず何も始まらない。これは物質世界での記号である名前だからであり、お金をいくら持っていようとも一人だと食べ物も買えず、高級車もマンションも売ってくれる人もいない。文字通りただの紙屑。自分であるという事を認識するのは自分以外の物質が必要になる。しかしそこに生まれた物質に宿る精神は元々ひとつである「1」が別れた分数であるという考え方。

これが精神世界の話。宇宙にも精神宇宙と物質宇宙がある。「宇宙が一つである」というのは精神世界の意味での一つ。これを1つだと認識するために二つ目三つ目となる物質が生まれていく。これが惑星であり太陽であり星々である。でも精神世界の観点からいくとこれらも全てはもともと一つの意識(魂)が物質として二つ三つ・・・・と別れて行っているに過ぎない。つまりこの二つ目の「2」三つ目の「3」が「1」が別れて生まれた分数であると。

ここで大事になってくるのが何故「2」や「3」やそれ以上が生まれるかというポイントで、精神世界では「1」であるという事を認識するために生まれたという事。「BESO」であると認識するためであるという事になる。そしてその「2」や「3」はそれぞれいずれ無くなる物質に「1」の一部の精神が宿っていく。そこに「2」には「2」の「3」には「3」の役割と性質が生まれる。物質が違うから精神も少し違う面を見せる。ただ何度も言うように全ては一つの「1」という宇宙精神が分かれているだけで本質的にはすべて同じ精神(魂)である。

車には車の、木には木の、人には人の役割と性質があり、その全てに宿っている魂は元々「1」であるが、それが物質世界に目に見える形となるのは全て異なった行動や活動という物質世界での結果が表れているに過ぎない。

だから同じ人でも人それぞれに考え方が異なり、行動も違う。それぞれの分数としての役割がありそれぞれの分数としての物質世界での結果が表れる。

元々一つであった意識の「1」が分数として分かれてそれぞれの物質に宿ると、元々「1であった記憶や意識を忘れてしまう。自分が新たな1になったと勘違いしてしまう。それは自分で感じたり考える能力があればあるほど強くなる。それが人間である。人は産まれながらに自分であると教え込まれそれを物質世界で感じてしまうと物質世界で分かれている分かれているだけの分数を精神世界でも本当に別の数字である勘違いしてしまう。その結果争いが生まれる。

「袖振り合うも他生の縁」であり「人類みな兄弟」である。兄弟、家族という事を考えて見る。人間社会での最小単位の集団。ここには誰に言われたわけでなく助け合う精神がある。中には兄弟間・家族間で財産や権利を争う醜い話もある。しかし、根本は食べ物なり生きて行く事を分け合い助け合う集団である。

子供が幼い時は、親が自分の食べ物を減らしてでも子供に与える。それは子供がまだ一人で生きていけないからでありそこにあるのは無償の愛。子供が成長し親が老いてくると逆の現象が起きる。そこにあるのは感謝でありまた無償の愛である。本来これが人間の純粋な精神が物質世界に反映された自然な結果であると思う。

この家族が村になり、町になり、街になり、国家になり大きくなるにつれてこの意識が薄れていく。村人同士で奪い合い、国家同士で奪い合い、さらには殺し合う。精神世界ではみな元々「1」であるのに物質世界での「2」や「3」を勘違いから無理矢理「1」にしてしまっている。そして自分が裕福になるために物質世界の「2」や「3」から奪う。しかし精神世界では「1」か奪い合ってるに過ぎない。

物質世界の数学では1+1=2である。100+100=200である。これは疑いようも無い。しかし精神世界では1+1=1であり、100+100=1である。これはもともと分かれていた分数が元にどれだけ帰ろうと1であるという考え方。家族同士でいくらお金を奪い合ってもその家族のトータルの資産は一切変わらない。よその家族からどれだけ奪ってもその町の資産は変わらない。よその国からどれだけ奪っても地球の資産は変わらない。よその惑星からどれだけ奪っても宇宙の資産は変わらない。これが1+1=1の精神世界の数学。

どうしたらこんな考え方が物質世界で考えられるのか?まかり通るのかはVol.2にて。

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