不完全な世の中

最近のテーマとして憲法が日本の中心に渦巻いている。

 

日本初の憲法として1890年に「大日本帝国憲法」が施行され、

次いで1947年に「日本国憲法」がGHQによって施行された。

 

その間には2回の世界大戦があり、2回目の第二次世界大戦・太平洋戦争では日本が連合国に敗戦した形となり、連合国軍最高司令部総司令部(GHQ)により「日本国憲法」が制作された。

 

そして今、憲法を研究している学者が、声を大にして訴えていることがある。

慶応大学名誉教授・小林 節 氏は

「人間は非常に不完全な生き物であるというその存在に、まず本質が根ざしている。憲法はその不完全な人間が権力者となった時、暴走するのを防ぐ為にある。」

と言っている。

ここで不完全という言葉が出てくる。

 

完全・完璧・絶対という物はこの世に存在しない。これが心理ではないかと思う。壊れない物はないし、途切れない物も無い。限りなく長くなればそれが永遠に感じるかもしれ無いが、いずれは必ず終わる。

 

200年続いた江戸時代も初期の人は永遠に続くと思っていたかもしれない。逆に戦国時代を生きた人々はいつ終わるのかと、信長の統一を待ちわびていたかもしれない。中国の歴史では600年も戦い続ける時代もあった。

 

どれもいずれ終わる時が来る。しかし、それと同時にまた、次が始まるのだが、とにかく終わらない物は無い。

 

それは地球にも言えることだろうと思う。何億年、何千億年、何万億年後に地球があるという保証は無い。そして地球がなくなる頃にはまた、何かが始まるのだと思う。自分が死んで、次の世代が活躍する。至極自然な道理。世の中や宇宙はいつでもどこでも自然の道理で成り立っているのだと思う。

 

そんな不完全な世に生きるからこそ、完全を目指すのではないだろうか?人として、生き物として、動物として。

 

だからこそ、これらが美しくも、人々の心を魅了するのではないだろうか?

 

芸術、音楽、スポーツ、学問、思想・・・あらゆる分野において完全・完璧というものは無い。

 

が、まれにそれに近付き、不完全な我々には完全に見えてしまう瞬間がある。

それを起こせる人間を我々は「天才」や「カリスマ」と呼ぶ。そしてその最たるが「神」「メシア」という存在につながるのではないだろうか?

 

スポーツにおいておもしろい2つの考え方がある。

野球は手で全てのプレーをするためミスをしない事が前提のスポーツ。もしミスがあれば「エラー」としてスコアブックにマークされる。かと言って、ミスで終わりでは無い。生で観戦したことのある人はわかるだろうが、一つ一つのプレー毎に、ボールに関与しない選手が、カヴァーに回って動き続けるのも野球のプレーの一つ。

 

サッカーは手以外ですべてのプレーをする(キーパーを除く)ためミスをする事が前提のスポーツ。ミスが起きても対応できるように、常に考えてプレーされている。ミスが起きても焦らずに味方をサポートする。そして逆に相手のミスを誘うようにプレッシャーをかける。互いにミスをしてもサポートできる距離感が大事とサッカーではよく言われる。

 

完全ではない人間がスポーツをするのだからミスは当然ある。その時に、どう対応するかという対応力が問われる。

 

世の中も一緒では無いだろうか?

 

様々な分野で生活が営まれている。生活とは活力を持って生きるという事。しっかり働いて、ご飯を食べて、たっぷり遊んで、ぐっすり寝る。現代では様々な業種が生まれ、いろんな分野での発展がある。しかし、それだけミスも多様になってくる。不完全な問題がいっぱいだという事。

 

その不完全は誰が対処するのか?

 

野球でもサッカーでもそうだが、チームメイトが助けてくれるのが、いいチームではないだろうか?

 

自分も含め、ミスに対応して、よりよい状況に変えていく。憲法は、不完全な人間が権力者となった場合いずれ必ず暴走する。そのブレーキとなるための絶対のルール。という立ち位置。その憲法を国民の理解無しに、議論無しに、勝手に変えるというのは、暴走するための基盤作りとしか思え無い。

 

かつて、ミスの起きなかった政府は無い。それは自然な事。そのミスをカヴァーしながら新たにいい時代を少しずつ築きあげていく。その為に必要なのが、国民も政府もチームとなり日本国としてまとまる事が大切なんではないだろうか?

 

不完全な人間たちが、信頼のできる政府作りに向けて、何ができるだろうか?答えは不完全な歴史と未来に隠されているだろう。

 

 

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です