フリースクール

FREE、自由の意味とは?

あくまでも人間が、イメージや概念を言葉にしたもの。リンゴや太陽みたいな物の名前の言葉なら誰でも同じ物を思い浮かべるが、イメージや概念は人それぞれ思い浮かべる物が違う。

それでもあえて意味を言葉にすると、「したい事をする。」というのが、自由では無いだろうか?

最近のテーマである憲法にも多くの自由が保障されている。

表現の自由・職業選択の自由・信教の自由・経済活動の自由・・・

「自由」という言葉が出てくる時にセットで出てくる言葉。「義務」「責任」

 

憲法で言うところの、

納税の義務・勤労の義務・教育を受けさせる義務、など

 

法律では責任に対して、

公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする

というものがある。

 

つまり、原則したい事をしていいんだけど、国民としての義務と、周りの迷惑にならないように責任はとってね!と、というのが今の日本の自由という事になりそうだ。

 

で、今回はその教育の部分。最近ではタイトルの「フリースクール」また海外では「ホームスクール」というものが増えてきている。

 

「フリースクール」は簡単に言うと、子供がしたい・学びたい事を自ら学ぶ為にある学校。「ホームスクール」は、文字通り、自分の家に先生を呼んだり、親が勉強を教えるという教育のあり方。

 

不登校・ひきこもりという言葉がどこにでもある世の中。ひと昔前を考えて見ると、学びを受ける・学校に行けるというのは裕福な上流階級の子供だけの特権のような機会だった。

 

それが、国が豊かになり、皆が読み書きできるように、計算ができるように、歴史を知れるように、いろいろな技能を身につけられるように、政府が教育に力を入れてくれている。

 

今でも、世界の多くの国では子供を学校に行かせられない親がたくさんいる。もちろん、日本にもいる。経済的問題、両親を亡くし里親に預けられた子供、事情は様々なようで、学校に行きたくても行けない。

 

ちなみに、BESOの父親も高校に行きたかったが経済的理由で行けなかった。15歳にして働くしか道がなく、大阪に出てきた。これは父親が珍しいわけではなく、周りの若者も皆学校に行けたわけではないと言う。戦後すぐの日本という事もあったかもしれないが、1世代違うだけでこれだけ違う。

 

そしてこれからの学校を考えた時に「フリースクール」に道を見出したい。したい事を学ばせてくれる。子供の成長力というのは、大人には計り知れない。その成長力を最大限に発揮するのはしたい事をする時なのだ。しなければならない事をする時にその力は無い。

 

そしてその中で、なんでもしたい事をすればいい。というのでは無く、周りでしたい事をしている友達や周りの人と触れ合う。すると自然に話し合いの方法や、相手の自由を奪わない感覚が身につく。そこには「情」という概念が生まれる。友情や愛情、あいてへの思いやり。それがなければ自由では無く、責任の取れない身勝手。その違いを周りの人達と共に学べるのがフリースクール。という一つの学校としての形。

 

義務教育という有難い制度。基本となる授業料と教科書は国が負担してくれる。国語・算数・理科・社会・体育・技術・家庭科・音楽・英語をタダで教えてくれる。その中で、団体行動のルールや周りとの協調性も身につける。

 

昔の子供の時から親の仕事を手伝っていた時代からは考えられない世の中かもしれない。

 

しかし、逆にこの「義務」という言葉が悪循環を生んでいる。

 

本来は、子供がその勉強をしたいから学ぶのが本来の姿だ、と。しかし、頭ごなしに6時間ビッシリと決められたしなければならない授業は次第にしたくないのにやらなけらばらない嫌いな授業に変わっていく。しかも、30人40人単位のクラスに1人の先生。一人一人の進度にズレが出るのは当たり前。しかし、全体の平均かもしくは先に進んでいる子に授業の進度は進む。まるで、ついてこれない君が悪い。と言わんばかりに。

 

ACミランで活躍する本田圭佑。中学生年代のサッカー選手に「夢を夢で終わらせない為には、必ず叶えるという強い意志が大切。」と語る。おそらくほとんどの成功者が同じとこを言うだろう。

 

夢とは自分がなりたい事やしたい事。授業に遅れている生徒の夢が、その授業を理解し、先生のスピードについていく事。とは到底思えない。本人にしてみれば好きでもない学校の授業なんて、遅れたって何も構いはしない。構うのは周りの人たちで、親や教師や親戚。こんなままじゃいい高校に行けないよ!と

 

行けなくても構わないではないか。本当に大切な事が学べていれば大丈夫だと思う。本当に大切な事とは、したいと思う事をしっかりとできる事、それを発言や行動に移せる事が大切なんではないかと思う。

 

今の世の中の風潮として、しなければならない事を出来る人は多いが、したい事を出来る人は圧倒的に少ない。皆、口を揃えて「でも、それには◯◯が、だって⬜︎⬜︎が」その障害をどうにかする事を学ぶのが「教育」なのではないかと思う。

 

数学の問題を解く。この障害の越え方を公式や定理で解く。歴史を学ぶ事で、今までの生きてきた人達はどのようにこういった障害を越えてきたのかを教わる。自然界ではどのような摂理で成り立っているかと学ぶ事でその障害を超えるヒントを得る。

 

生きている限り障害が現れる。自然災害・人間関係・経済活動、そもそも生きていく為の食べ物に困る事も出てくるかもしれない。その様々な障害を超えられるようになるのが「勉強」である、越えられるように育ててあげるのが「教育」なのではないかと思う。

 

ここ最近、そういった教育に関しての新たな流れを感じる。決して他人事ではなく。自分の子供やこれからの日本を背負っていく若い世代が今までの日本を支えていかなければならない。しかしそこには、今までの日本国民が生み出してしまった多くの「業」という障害が立ちはだかってしまう。環境問題・放射能・年金・外国人所有地・米軍基地・・・。これらを上手く解消していかなければならない。しなければならないと思っていては多分できないと思う。したいと思える人だけが出来るのでは無いかと思う。

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