ネーミングの不思議

名前とは誰が決めるのだろうか?物や存在、概念に名前をつける。それにより人々が共通理解することができる。しかし逆に誤解や思い違いを起こす事もある。

どこがスタートでもどこがゴールでも無い水という存在。風もそう。雲もそう。ただただそれに名前が付いているだけ。人間の都合で。

雲ができ、雨が降り、地下水や池となる。川になり河になり河口が出来、海に流れ出る。水蒸気になり雲に戻る。だが雲がスタートでも無い。一つの水という存在。その水がその時、その場の様々な要因によって姿や形を変える。それを人間が勝手に名前をつける。

モジャコ→ワカナ→ハマチ→メジロ→オオイオ→スズイナ→ブリ。
ブリは言うかもしれない「俺はブリじゃ無い。俺だ」と。

赤ちゃん→幼児→子供→中学生→高校生→大学生→青年→大人→中年→老人。
老人は言うかもしれない「俺は大人だ」と。

名前を決める事で日常の生活は限りなく生活しやすくなった。名前が無いものがあると困るほどに。名前を決める際に重要なのが形。その形をつくる要因になる原動力がそこにはある。

ブリがブリになるには年月と栄養。赤ちゃんが老人になるにも同じ。水が河になるには地形や年月が。形が変わることによって名前が変わる。その形が変わるもとの原動力。

人間社会にも原動力という言葉がよく出る。成功者へのインタビューで何がそこまで駆り立たせる原動力になったのですか?と。答えは様々だと思う。でもその基本にあるのは、その人が何かを感じて想いを募らせ、その想いを形にしたから成功した。

形と想い。想いには名前があり、形に現れるとまた名前が変わる。二人の愛という想いが子供という名前に変わる。一人の憎しみという想いが一つの死体を生み出す。死んでいるにもかかわらず。いろいろな名前の元には人々の想いがある。その想いが単純に便利にするためにただただつけた適当なものでは無い気がする。

では何かを感じたその部分はなんだろう?

それが外からの力では無いかと思う。