四則演算

足し算と引き算。

学校へ行けば必ず教えられる計算と数学。その基礎となるのが、四則演算。足す、引く、掛ける、割る。

世の中にはああ言えばこう言う人たちがいる。定義に反抗したり、駄々をこねたり。合ってるか間違っているかというのは本当にどうでもいいことなのかもしれない。なぜなら、合ってるか合ってないかは自分が決めることだから。その内容に筋が通っているかどうかが重要な問題。そう考えると四則演算はかなりの部分で筋が通っている。という実績がある。

今回は、1+1は2ではなく、1−1は0では無いと言い張る人たちの話。

もちろん物質的に1つのリンゴがあって、それを食べてしまえば目の前にリンゴは無くなりリンゴの数は0になる。誰かにリンゴをあげようとしてもそこにリンゴは0個なのであげる事はできない。

この計算は四則演算の定義通り。

だが、人生の経験や考え方はこの四則演算通りに行かないという話。

リンゴは目の前から無くなったが、その中身や全ては体の中に入り、自分に取り込まれた。つまり定義通りに行くと自分という1つの個体にリンゴという個体が+1される。つまり2になるはずである。しかし実際にそこにあるのはリンゴを足したはずの1という自分の個体1しかない。つまり1+1は1となる。

こういった問題が四則演算の枠外にあるという考え方を人生に持つべきだという人たちがいる。

そして、そこからさらに人生は足し算だ!いや引き算だ!むしろ掛け算だ!そもそも割り算だ!

という人たちに別れていく。結論から言うと最初に言った通り、自分の中で筋が通っていれば合っていようが間違っていようが何も関係無い。大事なのは自分の中に四則演算を超えたルールを自分で持つということではないだろうか。四則演算が全てでは無いと理解することではないかと。

その中でBESOが最近思う計算を考えて見る。

足し算の不思議。

自分という1の個体には様々な情報や知識や経験がある。仮に全ての知識を得られたゼウスになったとしよう。何を聞かれても、どんな疑問を持ちかけられてもすぐに答えを導き出せるようになると思う。

しかし、その場合ですら自分は1であると思う。生まれたばかりの知識のほとんど無い赤ちゃんも個体としては1。膨大な知識の詰まった博学な老人も個体としては1。ゼウスも個体としては1。つまり、どんなに経験を積もうが知識を詰めようがどこまでいっても自分は1である。知識を1つ1つ数えていけば、四則演算では10にも100にも10000にもなるはず。ひとつひとつの知識が1と数えられるならば。だからリンゴを食べても2にはならず1のままであるという事。

それは個体としてのという意味で、体は1つで、あるとするならば(あると思っているが)魂も1つという事。その1つの個体の質がそれぞれで変わるという意味。

引き算のススメ

1つの個体としての人間1人が、1日に考えられる労力を1だとしよう。朝起きて仕事や学校の事を考え、家族の事を考え、自分の将来や生活にその労力が注がれる。大企業の社長やCEOであっても赤ちゃんでも1を超える事は出来ない。

要領の良い人はその1の使い方の質がいいのだと思う。その質の使い方によって1を100にし、1000にするのだとBESOは考える。「あの社長はすごいな、会社を3つも4つもやって全部大きくしてる。」それはその人の労力が1を超えてるんではなくてその1の質を100やそれ以上にする方法を知っているからだと思う。それは要領の良さであり、容量の大きさではない。

四則演算では労力1を100にするには1に100を掛けなくてはいけない。しかし人生の四則演算は定義通りでは無い。1を100にする為に引き算を使うのである。

仮に家を3つ持ってたとする。1つ目は自分が住む家、2つ目は貸して家賃収入にする家、3つ目は見晴らしの良い避暑地としての別荘。

自分の住む1つの家しか持っていない人からすると考えなくてはならない労力は単純に3倍になる。これは四則演算の掛け算。家賃の問題、固定資産税の問題、光熱費、その他諸々の維持費。貸す家であれば借主を探すという労力なんかも含まれる。別荘であれば、夏場以外の管理人を雇ったり。

ここで、引き算がその人の要領を良さを試す。自分に本当に必要かどうかを問いかける。1つ目の家は本当に必要か?ほとんどの人は要る。しかし、事務所で寝泊まりすれば家は要らないという人は1つ目の家すら要らない。2つ目の家賃収入の家は必要か?3つ目の別荘は必要か?

その判断の基準は自分の幸せとはという定義によって犀が振られるべきである。

家賃収入で自分の好きなことを突き詰めて、夏場には避暑地で自分の生活を快適に過ごす。というライフスタイルこそが自分の幸せであるならそれに1しか無い労力を注ぐべきである。

しかし、そのライフスタイルが自分で見つけた、自分が本当に欲しているものでなく、なんとなく周りの話を聞いたり憧れてやっていることならそれを引くべきである。

その選択は単純に持つか、捨てるかという判断。

この人が仮に一生サーフィンをして人生を過ごしたいと本当に思っているならこのライフスタイルはなかなか理想なものだと思う。家賃収入で稼ぎ、他の人が働いている時間にサーフィンをする。夏場は波のスポットに近い場所に別荘を持ち、すぐに波に乗れる環境を得る。空いている時間に不動産などの仕事する。限りなく理想のライフスタイルだと思う。

しかし、単にお金が欲しかったり、別荘を持ちたいというのであれば、労力の無駄遣いに終わる。1しか無い労力を。

つまり要領の良さとは多くの事を一度にするのではなく、自分の人生を幸せにする為に、豊かにする為に、要らないもの、要るものを見極めるセンスが大事であるということ。

それが手元にあって余計な労力だと判断した場合捨てる勇気のある人が、要領のいい人になっていく。その場合、持っている家は単純に3ー2で1になるが、労力の質があがる。家賃収入や別荘での暮らしは無くなるが。

一例に家の話を挙げたが、これが生活にある全ての事に言える。睡眠、仕事、学校、遊び、その全て。普段はあまり考え無い。が、何かを目指し始めた人はこれをよく考える。なぜなら時間が、労力が足りなくなるから。

いついつまでにこれを作らなければなら無い。これを提出しなければなら無い。となれば否が応でも今すべき事を考える。その際に何かを自分である1から引くという事をしなければ労力1で追いつかな無くなる。寝る暇がなくなるのか、遊んでる暇がなくなるのか、学校に行ってる時間がなくなるのか。

すると、1でこれをするならこれは自分には要らない、これも要らない、あれも要らない。要るのはこれだけ。という考え方になる。そうすれば自分の容量が増えるのではなく、自分のやるべき事でない事が減る。その方法として、従業員に任せるのか、それ自体をしないのか、それとも作業効率をあげる方法を見つけるのか、もしくはその事柄自体を捨ててしまうのか。

その習慣がいろんなところに派生していく。

その究極が食べ物では無いかと思う。米を食べる、野菜を食べる、肉を食べる、水を飲む、お酒を飲む。

体が求めているから体に入れるのか、意識が求めているから体に入れるのか。そして大事なのは体に入れた結果どうなるのか。

もちろん全てを捨て去る事は出来無い。神や仏以外には。なぜなら人間だから。個体としての1があるから。全てを捨て去ると0になってしまう。1があるが故にいろいろな感情が湧き、意識がいろいろなところへ向く。

その1を求めて、引き算を限りなくする事で1が100にも1000にもなるのでは無いかと思う。

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