もうひとつの分数

分数といえば1/2、1/3という数字を思い浮かべる。全部を1として二つに分けたうちの一つ。という数字。

今回はもうひとつの分数の考え方。従来の考え方にプラスアルファーで考えてみて欲しい。宇宙を理解するには数字を追及しろと言われている。それぐらい宇宙・地球・他の惑星は数字でバランスが取られている。そしてその元の元の元の基盤として考えられているのが

宇宙 = 「1」(全ては一つ)
宇宙 = α = Ω (始まり無き終わり無き宇宙)

という大定理。

宇宙という想像もできない大きな存在は一つであると言われている。その中で新たな惑星が生まれ古い惑星が死んでいく。それは地球上における生物のような感覚で何かが死に何かが生まれるのと同じである。

そしてこの話にはもう一つの柱となる考え方が必要になる。それが精神世界と物質世界。全ての物事には目に見える物質と目に見えない精神がある。人間でいう体と意識。意識は魂とも言われ目に見る事は基本的にできない。これは有限と無限の話にもつながる。形あるものは全て無くなる。「諸行無常」「栄枯盛衰」という言葉がそれである。生き物の体は物質なので無くなる。車や建物、自然物もそう。でも魂である精神は死んでも無くならない。仏教で言う「輪廻転生」などの考え方。しかしこの二つはコインの裏と表のような関係で切っても切れず物質が生まれるとそこに魂が宿ると言われている。生き物じゃない物に魂なんて無い。という人も確実にいるが、スポーツなどで大事に使われている道具には魂が宿っていると言われている。見えない魂なので普段意識しないと認識することはなかなか出来ない。

この「宇宙は一つである」という柱と「精神世界と物質世界」という柱のもとにもうひとつの分数を見てみる。

一つである宇宙は全てが繋がっていて「1」である。0でもなく2でもない「1」。しかしこの考え方は早速問題が起きる。宇宙が「1」であると宇宙の意識はどうやって認識するのだろう?人間に置き換えると周りに自分じゃない人間がいるから自分という「1」がいると認識できる。「BESO」という名前があり、違う名前の人が自分を「BESO」と呼んでくれる。しかし全てが一つであると自分を自分であると何も認めてくれない。

無人島でいくら自分が「BESO」だと叫んでも何も起きず何も始まらない。これは物質世界での記号である名前だからであり、お金をいくら持っていようとも一人だと食べ物も買えず、高級車もマンションも売ってくれる人もいない。文字通りただの紙屑。自分であるという事を認識するのは自分以外の物質が必要になる。しかしそこに生まれた物質に宿る精神は元々ひとつである「1」が別れた分数であるという考え方。

これが精神世界の話。宇宙にも精神宇宙と物質宇宙がある。「宇宙が一つである」というのは精神世界の意味での一つ。これを1つだと認識するために二つ目三つ目となる物質が生まれていく。これが惑星であり太陽であり星々である。でも精神世界の観点からいくとこれらも全てはもともと一つの意識(魂)が物質として二つ三つ・・・・と別れて行っているに過ぎない。つまりこの二つ目の「2」三つ目の「3」が「1」が別れて生まれた分数であると。

ここで大事になってくるのが何故「2」や「3」やそれ以上が生まれるかというポイントで、精神世界では「1」であるという事を認識するために生まれたという事。「BESO」であると認識するためであるという事になる。そしてその「2」や「3」はそれぞれいずれ無くなる物質に「1」の一部の精神が宿っていく。そこに「2」には「2」の「3」には「3」の役割と性質が生まれる。物質が違うから精神も少し違う面を見せる。ただ何度も言うように全ては一つの「1」という宇宙精神が分かれているだけで本質的にはすべて同じ精神(魂)である。

車には車の、木には木の、人には人の役割と性質があり、その全てに宿っている魂は元々「1」であるが、それが物質世界に目に見える形となるのは全て異なった行動や活動という物質世界での結果が表れているに過ぎない。

だから同じ人でも人それぞれに考え方が異なり、行動も違う。それぞれの分数としての役割がありそれぞれの分数としての物質世界での結果が表れる。

元々一つであった意識の「1」が分数として分かれてそれぞれの物質に宿ると、元々「1であった記憶や意識を忘れてしまう。自分が新たな1になったと勘違いしてしまう。それは自分で感じたり考える能力があればあるほど強くなる。それが人間である。人は産まれながらに自分であると教え込まれそれを物質世界で感じてしまうと物質世界で分かれている分かれているだけの分数を精神世界でも本当に別の数字である勘違いしてしまう。その結果争いが生まれる。

「袖振り合うも他生の縁」であり「人類みな兄弟」である。兄弟、家族という事を考えて見る。人間社会での最小単位の集団。ここには誰に言われたわけでなく助け合う精神がある。中には兄弟間・家族間で財産や権利を争う醜い話もある。しかし、根本は食べ物なり生きて行く事を分け合い助け合う集団である。

子供が幼い時は、親が自分の食べ物を減らしてでも子供に与える。それは子供がまだ一人で生きていけないからでありそこにあるのは無償の愛。子供が成長し親が老いてくると逆の現象が起きる。そこにあるのは感謝でありまた無償の愛である。本来これが人間の純粋な精神が物質世界に反映された自然な結果であると思う。

この家族が村になり、町になり、街になり、国家になり大きくなるにつれてこの意識が薄れていく。村人同士で奪い合い、国家同士で奪い合い、さらには殺し合う。精神世界ではみな元々「1」であるのに物質世界での「2」や「3」を勘違いから無理矢理「1」にしてしまっている。そして自分が裕福になるために物質世界の「2」や「3」から奪う。しかし精神世界では「1」か奪い合ってるに過ぎない。

物質世界の数学では1+1=2である。100+100=200である。これは疑いようも無い。しかし精神世界では1+1=1であり、100+100=1である。これはもともと分かれていた分数が元にどれだけ帰ろうと1であるという考え方。家族同士でいくらお金を奪い合ってもその家族のトータルの資産は一切変わらない。よその家族からどれだけ奪ってもその町の資産は変わらない。よその国からどれだけ奪っても地球の資産は変わらない。よその惑星からどれだけ奪っても宇宙の資産は変わらない。これが1+1=1の精神世界の数学。

どうしたらこんな考え方が物質世界で考えられるのか?まかり通るのかはVol.2にて。

もうひとつの分数 Vol.2

物質世界と精神世界。簡単にこの話がわかれば苦労は無い。この感覚や真理を教えてくれてると言われてるのが仏教における「色即是空」。これに関しては「色即是空」ページを見て欲しい。(何度も言ってるけどBESOは無宗教)

物質世界にどっぷり浸かってしまっている人間はこれを忘れてしまっている。物質世界こそ全てだと思うとこれがなかなか抜け出せない。「欲」と呼ばれるものは物質に捉われてしまった場合に生まれる事が多い。物欲、性欲、独占欲、支配欲・・・

しかし、全てが自分と同じ「1」であるならこれらは全く無駄な無意味な物になる。悲劇の始まりは何かの「欲」であることが多い。金持ちは金で買えるものは何でもできるようになる。そうするといずれ飽きてくる。高いもの食べて飲み、高い家に住み、高い車に乗り、使用人や愛人を金で買う。しかし、そこに本当の自分である精神が本当に望んでいるのかという疑問が浮かんでくる。それよりも心から腹を割って本心を語れる人が横にいてくれることを望むようになる。

ホリエモンが一つのいい例かもしれない。IT業界の寵児と呼ばれ、巨額の富を得て欲しいと思うものは全て手に入れたかのように見える。しかし、(おそらくは有りもしない)脱税で捕まり財産も会社もスタッフも全てを失う。刑務所に入り残ったものは本当に支えてくれるスタッフと宇宙開発への情熱であったと。刑期を終えた時ホリエモンとしての過去は全て捨て去り、これからは堀江貴文として生きる。世に出してる本でこう語り、もちろんどこまで本心なのかとか、メルマガや本の収益でどんなけまた贅沢な生活をするかわからんけど少なくとも今までの生活が幻であったと言ってる気持ちに本心は感じた。

物質的な欲望の先には虚しさなく、あくまでも諸行無常である。本当の幸せや目的を財産を失って気づいた。故に精神が望む本当の幸せを早く見つけてそれに物質である体で体感することが大切である。

その精神が望む本当の幸せを感じる方法が「禅」や「瞑想」と言われている。瞑想の目的は内なる自分やインナーチャイルドと呼ばれる、自分の肉体ではなく魂に触れるために行うと言われている。つまり物質である肉体を忘れて精神である魂に目を向け耳を傾け意識を合わす。それに自分から歩み寄っていくのが瞑想であると。

そして辿り着く世界が「悟り」「涅槃(ねはん)」「ニルヴァーナ」とよばれている。涅槃にもこの体と魂という感覚があり、有余涅槃が体のある悟りで無余涅槃が体の無くなった死後の悟りと言われている。

この境地から見る世界は全てが繋がって一つとなっている「1」の精神世界。それがアカシックレコーズでもある。これにかつて肉体を持ちながらたどり着いたのが世界中で崇められているイエス・仏陀・釈迦・モーセ・などの神の申し子。この境地で神を声を人々に伝えたとされている。

宮本武蔵もその一人だと言われている。人を斬り続け、天下無双を目指し続けた結果辿りついたのはこれであった。それを記したのが「五輪書」。何かを極めるという事に精神を集中すると意識が悟りに触れ見えてくる世界が物質世界から精神世界になると。

スポーツ選手なんかにもある。スポーツや物事を極めようとした時に訪れる無我の境地というのもこれに近い。無我の境地ということは自分である我が無くなる世界ということ。スポーツの極限の場面やアーティストがライブなどで「何も覚えていない」「体が勝手に動いていた」というセリフをたまに聞く。

精神が肉体を自動操縦する。だから普段脳が考えている意識ではなく元々持っている無意識が体を動かす。この無意識こそが精神であり魂である。この魂が望むものを体感し、「1」として経験を記憶し改めて「1」である事を認識しさらに成長するために生まれてきた。これがなぜ人が生まれて死ぬのかという哲学的な概念の一つの真理では無いかと思う。

今一度自分の幸せを考えて欲しい。金持ちになりたい。いいマンションに住みたい。高級車に乗りたい。セレブになりゴージャスなドレスを着たい。物質的な体がその欲望を求めているのか、魂がそれを純粋に求めているのか見極めてほしい。自分にしか出来ない物を生み出したい。なぜか自分が心から望むものを追い求めたい。そういうものが飽きることの無い本当の幸せではないだろうか?

みんながいるから自分がいるとわかる。「1」が「1」であるために、もしくは「1」という事を認識するために「2、3、4・・・」がいる。そして分数としての役割と性質がある。これをどう物質世界である世の中に落とし込んでいくかが人間に与えられた使命であり楽しみでは無いかと思う。精神は「1」であり物質としては「2」である自分がどう分数として人生を送り元数「1」に戻るか楽しみで仕方ない。

獅子座の門 Lion Gate

百獣の王「ライオン」。ライオンを型どった星座の獅子座。

そこに込められている意味は百獣の王としての威厳。他の民を導き世のため人のために自ら険しい道や苦を選ぶ。時には我が子を谷底へ突き落とす愛情の裏返しの非情さ。

そんな獅子座の守護星は「太陽」。まさしく百獣の王にふさわしい守護星。太陽系と言われる地球を含む星々の中心である太陽。獅子座が最も輝くこの夏という期間はそういう意味でも熱く太陽からのエネルギーが降り注がれる。

そして獅子座の真っ只中に訪れるこの8月8日という日は古くからあるゲートが開く日と言われている。その名も「ライオンズゲート」。宇宙は数字で構成されているとよく言われる。数字の8が2つ並ぶ特別な日に輝く獅子座の門が開く。

さらに今年は2015年という事で2+0+1+5=8で888のライオンゲートとなり特別な日とされている。ただのこじつけ。という見方もある。そもそもライオンゲートなんてあるわけない。とも。

もちろんそんな意見も有りです。

ただ言いたいのは、今でも語り継がれている様々な事には意味があり、残るべくして残っている。その中で語り継がれるライオンゲート。ゲートという言葉は様々なシーンで使われている。特にスターゲートはそろそろ注目を集める時代になってくるのではないかと個人的には思う。

つまり888のライオンゲートが開く今日、2015/8/8。そのパワーを感じるため、瞑想をする人。断食をする人。普段通り生活する人。気にしない人。そんな馬鹿げた話と思う人。それぞれに同じ「今日」がやってくる。

今日という1日を、今という一瞬をどれだけ大事に生きて自分の人生としっかり向き合えるか。その一瞬一瞬が次のステップ、明日、1年後、10年後・・・の自分を型どっていく。無駄な事など、無駄な瞬間などなどない。逆に無駄と思える事にこそ意味があり新たな気付きがある場合も多い。

なんにしろ、猛暑日の今日。太陽から大きなパワーがライオンゲートを通り地球に降り注がれた。気がする。ちなみに、圧倒的なパワーに体調を壊す人が多く出るとも言われている。今日体調が悪くなった人は意識で感じていなくても体が感じていた結果なのかもしれない。

ちなみに2015年の獅子座の新月は8/14 23:53 です。
例によって、獅子座の意味合い
・王としての寛大さや強さ、周りの人を思いやる気持ち
・太陽のような尊厳、輝き、物事の中心
・ひいては陥りやすい、自己中心的考え方、排他的な考えの見直し

そんな事を心に秘めながら願い事をするのがいいのではないかとおもいます。

Lion Gate

king of beasts「Lion」, A constellation resembles Lion, The Lion.

It has dignity of king, to lead others and choice hard way for people and world. Also has heartless decision like push son to the bottom of the gorge as the other side of love.

The guardian STER is 「SUN」.Certainly, deserves to be a king. The center of the solar system that have many stars and planet include the Earth. Huge energy fall and invest to the Earth for a summer while the lion shine most in a year.

The date 8/8. this date is called opening gate day since ancient「Lion gate」.Some people say Universe is consist from numbers. Two 8 are in a line at this date.

In additional, 2015 means 2+0+1+5=8. Three 8 are in a line this spetioal date.

Do a meditation, do a fast, spend life as a usual, for feel special power at this day. It doesn’t matter don care about it. Same date 「Today」comes to everyone.

Most important thing is how u get a time or life at 「NOW」with facing to yourself and your life. The each time create your next step, tomorrow, one year later, ten years later, and so on. There is nothing nonsense moment and thing. If anything, nonsense has meaning and new message for you.

Anyway, huge energy fall to the Earth from SUN through Lion gate. some people may feel bad from huge power. It might result as that body feel the energy even if not feel on conscious.

Incidentally, new moon of Lion is 8/14 23:53
・Generous and power, care about other people as a powerful man
・Dignity, shine or centre like the Sun
・To reconsider go down egocentric and impenetrative thinking,

四則演算

足し算と引き算。

学校へ行けば必ず教えられる計算と数学。その基礎となるのが、四則演算。足す、引く、掛ける、割る。

世の中にはああ言えばこう言う人たちがいる。定義に反抗したり、駄々をこねたり。合ってるか間違っているかというのは本当にどうでもいいことなのかもしれない。なぜなら、合ってるか合ってないかは自分が決めることだから。その内容に筋が通っているかどうかが重要な問題。そう考えると四則演算はかなりの部分で筋が通っている。という実績がある。

今回は、1+1は2ではなく、1−1は0では無いと言い張る人たちの話。

もちろん物質的に1つのリンゴがあって、それを食べてしまえば目の前にリンゴは無くなりリンゴの数は0になる。誰かにリンゴをあげようとしてもそこにリンゴは0個なのであげる事はできない。

この計算は四則演算の定義通り。

だが、人生の経験や考え方はこの四則演算通りに行かないという話。

リンゴは目の前から無くなったが、その中身や全ては体の中に入り、自分に取り込まれた。つまり定義通りに行くと自分という1つの個体にリンゴという個体が+1される。つまり2になるはずである。しかし実際にそこにあるのはリンゴを足したはずの1という自分の個体1しかない。つまり1+1は1となる。

こういった問題が四則演算の枠外にあるという考え方を人生に持つべきだという人たちがいる。

そして、そこからさらに人生は足し算だ!いや引き算だ!むしろ掛け算だ!そもそも割り算だ!

という人たちに別れていく。結論から言うと最初に言った通り、自分の中で筋が通っていれば合っていようが間違っていようが何も関係無い。大事なのは自分の中に四則演算を超えたルールを自分で持つということではないだろうか。四則演算が全てでは無いと理解することではないかと。

その中でBESOが最近思う計算を考えて見る。

足し算の不思議。

自分という1の個体には様々な情報や知識や経験がある。仮に全ての知識を得られたゼウスになったとしよう。何を聞かれても、どんな疑問を持ちかけられてもすぐに答えを導き出せるようになると思う。

しかし、その場合ですら自分は1であると思う。生まれたばかりの知識のほとんど無い赤ちゃんも個体としては1。膨大な知識の詰まった博学な老人も個体としては1。ゼウスも個体としては1。つまり、どんなに経験を積もうが知識を詰めようがどこまでいっても自分は1である。知識を1つ1つ数えていけば、四則演算では10にも100にも10000にもなるはず。ひとつひとつの知識が1と数えられるならば。だからリンゴを食べても2にはならず1のままであるという事。

それは個体としてのという意味で、体は1つで、あるとするならば(あると思っているが)魂も1つという事。その1つの個体の質がそれぞれで変わるという意味。

引き算のススメ

1つの個体としての人間1人が、1日に考えられる労力を1だとしよう。朝起きて仕事や学校の事を考え、家族の事を考え、自分の将来や生活にその労力が注がれる。大企業の社長やCEOであっても赤ちゃんでも1を超える事は出来ない。

要領の良い人はその1の使い方の質がいいのだと思う。その質の使い方によって1を100にし、1000にするのだとBESOは考える。「あの社長はすごいな、会社を3つも4つもやって全部大きくしてる。」それはその人の労力が1を超えてるんではなくてその1の質を100やそれ以上にする方法を知っているからだと思う。それは要領の良さであり、容量の大きさではない。

四則演算では労力1を100にするには1に100を掛けなくてはいけない。しかし人生の四則演算は定義通りでは無い。1を100にする為に引き算を使うのである。

仮に家を3つ持ってたとする。1つ目は自分が住む家、2つ目は貸して家賃収入にする家、3つ目は見晴らしの良い避暑地としての別荘。

自分の住む1つの家しか持っていない人からすると考えなくてはならない労力は単純に3倍になる。これは四則演算の掛け算。家賃の問題、固定資産税の問題、光熱費、その他諸々の維持費。貸す家であれば借主を探すという労力なんかも含まれる。別荘であれば、夏場以外の管理人を雇ったり。

ここで、引き算がその人の要領を良さを試す。自分に本当に必要かどうかを問いかける。1つ目の家は本当に必要か?ほとんどの人は要る。しかし、事務所で寝泊まりすれば家は要らないという人は1つ目の家すら要らない。2つ目の家賃収入の家は必要か?3つ目の別荘は必要か?

その判断の基準は自分の幸せとはという定義によって犀が振られるべきである。

家賃収入で自分の好きなことを突き詰めて、夏場には避暑地で自分の生活を快適に過ごす。というライフスタイルこそが自分の幸せであるならそれに1しか無い労力を注ぐべきである。

しかし、そのライフスタイルが自分で見つけた、自分が本当に欲しているものでなく、なんとなく周りの話を聞いたり憧れてやっていることならそれを引くべきである。

その選択は単純に持つか、捨てるかという判断。

この人が仮に一生サーフィンをして人生を過ごしたいと本当に思っているならこのライフスタイルはなかなか理想なものだと思う。家賃収入で稼ぎ、他の人が働いている時間にサーフィンをする。夏場は波のスポットに近い場所に別荘を持ち、すぐに波に乗れる環境を得る。空いている時間に不動産などの仕事する。限りなく理想のライフスタイルだと思う。

しかし、単にお金が欲しかったり、別荘を持ちたいというのであれば、労力の無駄遣いに終わる。1しか無い労力を。

つまり要領の良さとは多くの事を一度にするのではなく、自分の人生を幸せにする為に、豊かにする為に、要らないもの、要るものを見極めるセンスが大事であるということ。

それが手元にあって余計な労力だと判断した場合捨てる勇気のある人が、要領のいい人になっていく。その場合、持っている家は単純に3ー2で1になるが、労力の質があがる。家賃収入や別荘での暮らしは無くなるが。

一例に家の話を挙げたが、これが生活にある全ての事に言える。睡眠、仕事、学校、遊び、その全て。普段はあまり考え無い。が、何かを目指し始めた人はこれをよく考える。なぜなら時間が、労力が足りなくなるから。

いついつまでにこれを作らなければなら無い。これを提出しなければなら無い。となれば否が応でも今すべき事を考える。その際に何かを自分である1から引くという事をしなければ労力1で追いつかな無くなる。寝る暇がなくなるのか、遊んでる暇がなくなるのか、学校に行ってる時間がなくなるのか。

すると、1でこれをするならこれは自分には要らない、これも要らない、あれも要らない。要るのはこれだけ。という考え方になる。そうすれば自分の容量が増えるのではなく、自分のやるべき事でない事が減る。その方法として、従業員に任せるのか、それ自体をしないのか、それとも作業効率をあげる方法を見つけるのか、もしくはその事柄自体を捨ててしまうのか。

その習慣がいろんなところに派生していく。

その究極が食べ物では無いかと思う。米を食べる、野菜を食べる、肉を食べる、水を飲む、お酒を飲む。

体が求めているから体に入れるのか、意識が求めているから体に入れるのか。そして大事なのは体に入れた結果どうなるのか。

もちろん全てを捨て去る事は出来無い。神や仏以外には。なぜなら人間だから。個体としての1があるから。全てを捨て去ると0になってしまう。1があるが故にいろいろな感情が湧き、意識がいろいろなところへ向く。

その1を求めて、引き算を限りなくする事で1が100にも1000にもなるのでは無いかと思う。

数字vol.3 〜宇宙とヒモ理論〜

物の数を考え、目に見えない物の数を数える。その限りない探究心の現代の先端はどこなのか?そしてその真の目的や使命は何なのか。

数字シリーズで1番言いたかったのは(もちろん幾何学の数字や周波数も言いたかったけど)宇宙の仕組み。そしてヒモ理論。

「宇宙とは数字で出来ている」という言葉がある。天体の配置、距離感からそれぞれ惑星・衛星の大きさまで緻密に計算され回転しながら成り立っている。人間がどれだけ考え抜いても出し尽くせないぐらい緻密に。

宇宙に限らず、黄金比である自然や動植物も数字でできているとも言われている。種の大きさや中身から人間の臓器の内部まで。つまりどれだけ数字が嫌いで数学が苦手でもこの世の全ては数字で成り立っている事には逆らえない。

尊敬するマッドサイエンティスト、ニコラ・テスラがほんまか嘘か言ったとされる言葉。「If want to find the secrets of the universe, think in terms of energy, frequency and vibration.」(宇宙の秘密を知りたければエネルギー、周波数そして振動(波動)について考えよ)これが頭から離れない。

ニコラテスラについてはこの記事を ニコラ・テスラ

まさしく目に見えない、捉えきれない物の究極。それを考えるときはこれらの数字で考えろと解釈できる。

学校の数学の授業が嫌い。そんな小さな概念では無くもっともっと壮大でマクロな視点での話。

宇宙について勉強して研究して何の役に立つのか?

今の世の中を生き抜くのは大変で日々の生活を送るのに必死になる。娯楽と言えばしょうもないテレビのバラエティやゲーム。しかし、本当は人々をこういった数字の秘密や宇宙の法則から目をそらさせ意識を遠ざけられているとすればどうだろう?これを考える事で生活が豊かになるかどうかはわからない。もちろん人それぞれの豊かさもそれぞれ。バラエティやゲームが死ぬほど好きでそれが人生の本当の幸せと言うのであればいいと思う。

自然を壊し調和を乱す人間が地球と調和し、自然を守っていくという事を考えると数字について考えなければならなくなってくるはずである。自然破壊も地球環境も自分には関係無い。という人にはどうでもいい事だろう。だがもし全員がこう思うと地球と宇宙はどうなってしまうのだろう?広い宇宙なのだから地球なんて無くなっても。と考えているのだろうか?紛れもなく地球があって今の宇宙は構成されている。世の中に無駄なものなど無い。

そんな大きなテーマとして考えるのはぼんやりしすぎるのでもう少し身近に考えてみる。これまでの偉人の心をことごとく鷲掴みにしてきた宇宙と数字。その理由や正体を垣間見るぐらいは我々凡人にも楽しみの一つとしておもしろんじゃないだろうか?

宇宙を解明する仮説として最近注目されているのがヒモ理論(弦理論)。さらにそれを発展させた超ヒモ理論(超弦理論)。明確にこの話をすると理解するまでに膨大な時間がいるため端的に。

これまで物を構成している物質は極限に小さな粒で粒子だと考えられていた。地球上のモノも宇宙空間のモノも。しかしそれでは説明のつかない現象が数多くある。そこで、粒子では無くヒモ状の物質では無いかと考えられた。こう考えると筋が通る説明ができるようになることが増えた。

世紀の大発見かと思われたが欠点もあった。ヒモ理論を進めると計算上5通りのヒモ理論が存在してしまう事になるのだ。それを更に進化させた超ヒモ理論というものが昨今の科学者の中で囁かれている。もしこの超ヒモ理論が完成されれば大幅に宇宙の法則に近づくと言われている。

科学において最大の発明は動きや物が構成されている原理を説明するという事。有名な話としてニュートンの万有引力の法則、ガリレオの地動説。科学史に残された数々の研究や定説は偉大な科学者たちによって発表され、また覆されてきた。

様々な動きや物の性質に筋の通る説明が数多く発表されてきた結果として現代では、物の動きは大きく分けて4つの力によって動いていてる。単純に4つと言えばただの4つだけかと少なく思うが、この4つになったのも考えられないくらい長い時間を要し、多くの科学者が頭が爆発しそうになりながら解明してきた。電磁気力、強い力、弱い力、重力。この4つが一つの力としてまとめられた〇〇力というものになった時、全てのモノの動きが証明され科学は究極の存在になる。その物の動きの性質を調べるために構成されている中身がヒモ状では無いかと考えられている。

かの有名な天才、アインシュタインでさえは2つの力を1つにまとめるので生涯を終えた。

相対性理論という新たな仮説を立て見事に科学を発展させた。その根幹は「光よりも早く動く物質は存在しない。」「光は波と粒子の2つの性質を持つ。」etc・・・。こういった多くの研究が次々発表された。

そして特殊相対性理論では、今まで別個の力と考えられていた電気の力(電力)と磁場の力(磁力)を互いに関係し合う一つの力に統合させる事に成功した。そうして電磁気力という考え方が新たに生まれた。つまり5つの力を4つの力にすることに成功した。

このように別々の力を一つの理論にまとめるには並々ならぬ想像力と方程式の組み立てが必要であると思われる。アインシュタインが天才と呼ばれる由縁の一つである。

しかし、宇宙は広い。アインシュタインが夢半ば到達することの出来なかった境地。全ての力の統合。こう考えただけでも先が果てしなく長いのは我々一般人にも推測がつくのではないだろうか?

宇宙の代表的な謎、ブラックホール。それを説明しようとすると相対性理論も破綻してしまう。こういった問題に次々仮説が生まれ証明され科学は発達している。

科学の難しい公式を解くのは科学者に任せるとしよう。そうすれば我々は何をするべきなのだろうか?指をくわえて科学者の解を待ち続けるだけなのだろうか?

そうではなく今度は我々がその解を元に新たな生き方を実践していく番だと思う。儚くも科学の進歩と戦争は切っても切れない関係にある。飛行機と戦闘機。原発と原爆。情報傍受とインターネット。おそらくは人間が人間である以上戦争は無くならない。戦争が無くなると人間は人間の存在は超えた何かに生まれ変わると思う。犬が吠えるが如く人間は戦争をする。

科学者で無い人たちはその科学者の紐解いてくれた原理を、いかに生活に組み込むかを考えるのが仕事であるように思う。その多くは家電製品に活かされ一般人の手元に渡る。しかしそこには落とし穴もある。便利という豊かさの裏に身体という宇宙に悪影響を与える。それに気付き改良するための案を出すのが一般人の勤めでは無いかと思う。

宇宙を含む自然と調和し、豊かな地球を守っていかなければならない人間。環境に従い種を残すだけが人間の使命では無い。その与えられた頭脳と自由に使える手足は、地球環境を整え他の種も守っていく為に与えられたのだと思う。その為にも、また自分の人生の豊かさを追い求める為にも自分の体を含めた宇宙や自然を理解するツールとしての数字を見直せばおもしろい日々の生活になるのではないかと思う。

数字Vol.2 〜目に見えない数字〜

目に見えない数字とは?

目で確認しきれない程大きいまたは小さい、そもそも人間の視覚では捉えきれない存在も数字によって成り立っているのという事。

例えば、電気・空気・電圧・空気圧。このように「気」がつく言葉や「圧」がつく言葉は基本的に目には見えない。

また、電子や分子など「子」がつく言葉は小さ過ぎて目に見えない。

逆に大き過ぎるものは天体や宇宙など人間が自由に調べることができない程大きい存在。

そういったものを人間が理解する為に今までの多くの科学者・数学者が人生をかけて様々な研究をして多くの公式や定理を生み出してきた。そしてどのように数字で成り立っているのかを解明してきた。

数字vol.1でも書いたようにそれらが実社会で数限りなく役立っている。

目に見えないものが実社会に役立っているものとしては「電気」「インターネット」「ガス」が1番わかりやすいかもしれない。

電気が発電所で生み出され各家庭や現場に届けられる。発電には火力水力原子力など様々な方法がありその全てに数字が関わっている。何かを変換するには必ず数字が出てくるのかもしれない。

その過程において電線や送受信機には様々な数式や定理が組み込まれている。

多くの公式や定理を編み出してきた科学の偉人たちだが、まだまだ科学者の頭を悩ましている存在が多くある。むしろ理解しきれていない分野の方が多いとも言われている。

代表格が「宇宙」。他にも「脳内」ひいては動植物の内部はまだまだ分かっていなことが無数にある。身近なものでいえば「音」もまだまだ分かっていない。全てを理解するのは不可能なのかもしれないが、ただ目の前に分からない事があると理解しようとするのが人間の本能なのかもしれない。

少し話は変わるが、世の中には天才と言われる人たちがいる。

各分野において他の人には真似の出来ないような事を自然体にしてしまう人達。

その天才を数字という観点から探ってみると非常に面白い結果が返ってくる。最近では音の正体が空気の振動という事が分かってきている。ギターやバイオリンの弦を弾くと振動が生まれ、その振動が空気を伝わり耳の鼓膜に訴えかけ、音楽として脳が認識する。それが判明し逆にどのように楽器や観客を配置するかという事を考えてコンサートが開かれていたりもする。ピアノがいつも客席に右を向けているのは、鍵盤を弾くとその振動が響板から抜けていくのは右側だからというのもこういった理由と言われている。

山下達郎という一人の天才もそのあたりを数字ではなく感覚として分かっており、コンサートの質に人一倍こだわりを持っているが故に大きな会場でのコンサートは基本的にNG。音がどこまでならよく聞こえるという事を感覚的に知っているようだ。

そして音楽史としても最高峰の天才モーツァルト。彼の作曲した曲は人を癒したり集中力を高める効果があると言われている。その原因を現代の科学者が調べると答えは周波数ではないかと言われている。人の感情に大きな影響を与える脳波。その脳波がα波に成り易いと言われる周波数がモーツァルトの曲にはある。

推測でしかないが今から1700年代後半に活躍したモーツァルトは周波数や脳波の研究などしていなかっただろう。しかし現代の機器で曲を計測すると不思議な事に素晴らしい程人が集中しながらリラックス出来る脳波が出る曲に仕上がっている。幼い頃から作曲の神童とされていたモーツァルトの脳内にはα波のメロディーが溢れていたのかもしれない。

このように目に見えない存在を数字で考えるとおもしろい結果がまだまだ他にも沢山ある。

次回の数字3では科学者の最終目標である全ての物質の根源「量子」に迫ってみる。

物体がいかに構成され存在しているのか、地球はどのように成り立っているのか、究極のテーマ生命はどこからやってきたのか。そして全ての科学者を虜にする宇宙。

これらの謎を解明しようと必ず出てくる数字。もちろん目には見えないため想像上、仮定として数字。もしこの仮定が正しければと見える答え。その仮定が正しいと証明する実験。

反分子や反重力など神の領域に徐々に近付きつつある人類の科学力。果たしてそれを手にする資格があるのか?もしくは使いこなす器を持っているのか?

答えは神ではなく数字が知っているのかも知れない。

数字vol.1 〜物の数〜

普段から何気なく使う数字。一度この「数字」というものを考えてみると、あまりの奥深さに驚愕する。

そもそも一般的に使われている数字は、あくまでも10進法という10溜まると次の位に行くという一つの使われ方。コンピューターや電子機器のベースになる2進法や時計の読み方の12進法など、いろいろな使われ方がある中の一つ。

数字という概念が生まれたのは、現代からすると遥か何万年前とも言われている。最初は、石に一本の線と並べていき数を数える、というような事から始まったのが遺跡から推測されている。

紀元前2万年前の遺跡においては、すでに素数や掛け算などの数字が見られている。古代において驚異的な発展として知られる古代インド数学は紀元前3000年頃、驚くほど精密な数学的比率でレンガを作り道を完全に近い直角で、街や建物を建設していた。

数学は主にモノヅクリにおいて発展を遂げたように思う。何かを作るときに考えるのは利便性、美しさ、継続性。人が住む家を建てる時は壊れないように設計する。人が身につけるモノや服を作る時は美しい形を生み出す。人が道具として使うモノは長く使えるように、また使いやすい形を求める。

その結果見つけられたのが黄金比。モノの長さにはこれらの要素を完璧にする最適な長さがある事に気づいた。建物が風や地震に負けず立ち続ける、見る者を惚れさせる美しさ、狙った以上に道具が道具として機能を果たす。そんな比率というのを見つけた。

図らずも自然界は全て黄金比でできていると言われている。見た目に美しい花や樹木。太陽と地球と月の距離。人間の体も限りなく黄金比に近い。故に全ての生き物は美しいと言う者もいる。

そう考えるとその人の顔が美しい、醜い等はなんと主観的で傲慢な意見か揶揄されてもいる。

そして、多くの物が生まれた先にその物自体の数という意味で数字が発展した。

単純に1個2個・・・という考え方からその分配法や将来への保存に割り算掛け算が発展した。

いろんな物を数えるようになった。単純に目の前にあるリンゴの数。見えている美しくも強くそびえ立つ木の数。光り輝く星の数。

その果てに目に見えない物を数えるようになっていった。計算によって。

目に見えるものの数は見てわかるのですぐに解が出る。今でも議論が続いている様々な方程式や理論の多くは目に見えないものの数がほとんど。これを数字vol.2から見ていこうと思う。