陰と陽

コインは裏と表があって1枚のコインである。
コインには裏だけがあるんでも無く表だけがあるんでも無い。そしてそこに悪と善は無い。あるのは裏と表っていう概念だけである。その裏と表っていうのも便宜上人がそう読んでるだけ。

これは全ての事に言える事であって、人間にも前と背中がある。どっちがいい悪いじゃなくてただ後ろ前なだけ。全ての物や生き物に当然ある。無いとすれば水や空気とか形の決まって無い自然物ぐらい。

今のは目に見える物の話。今度は目に見えない物の話。

よく言われるのが、悪い人良い人・悪い事・良い事。人を助ける事は良い事で、人を傷つける事は悪い事。これに異論を唱える人はまずおらん。確かにと俺も思う。でも今回はその問題にこだわるよりそれを一回取っ払って一つ外枠について考えたいと思う。

そして出て来るのが陰と陽。さらに善と悪は無いっていう考え方。陰と陽は全ての物事に通じる考え方でいろんな場面に出て来る。化学にも生物にも医学にも数学にも経済にも宗教にも何でも出て来る考え方。

身近な所で言う月と太陽。夜と昼。陰と陽のバランスが取れる事によって自然の調和がとれる。ずっと昼やった生物も植物も生きられへん。逆にずっと夜でも同じ。そう考えると日本は素晴らしく陰と陽のバランスの取れた国。
春夏秋冬がキレイに巡って春分秋分の日は一日が半分ずつ太陽が昇る。

元々は天候と関係する言葉として生まれてそこから他の分野の考え方にも派生して行った。

日本には昔陰陽師呼ばれる人達が活躍してた。残念ながら(?)明治政府が制度を廃止して以来陰陽師という職業は無くなった。中国の周王朝時代に考え方が完成されたと言われそこから日本にも渡って来た。推古天皇・聖徳太子の理解によって日本に普及したとされ、冠位十二階にも色濃くその考えが表れている。

中国では陰陽説と五行説(木・火・土・金・水)の考え方をミックスさせた陰陽五行思想というのが一つの考え方で完成し、十干十二支(五行にそれぞれ陰と陽、干支の十二支)や暦が生まれた。

それを日本にも取り入れそれを国家での学問とし自然の観察や占いにも応用させ日本の陰陽道を築き上げて来た。日本には古来からの神道がありそれと相互に発展して行き占術・呪術・風水術の要素も取り込み日本独自の陰陽道が展開されて行った。

そして有名な安倍晴明などの陰陽師が誕生して行く。

だいぶ脱線したけど何が言いたいかって、要は全ての物事は陰と陽で成り立ってるっていう考え方が日本にはあるっていう事。それが月と太陽でありコインの裏と表。

人にも動物にも植物にも陰と陽があってそれぞれがバランスをとって自然の調和がとれてるって言う事。そこに悪と善は無くただ、白色と黒色があるだけ。のイメージ。

そこに横入りして出て来た悪と善。元々そういう考え方もあったかも知らんけど現代のみんなのイメージの悪と善は一つの背景が隠れてると言われてる。

その背景については長いから悪と善で。

悪と善

悪と善。

悪魔と天使。

地獄と天国。

前回の陰と陽陰と陽からの続き。

何を持って悪と言い、善と言うのか。もちろんいろんな人の立場や見方、もしくは一般に共通した見方から言える概念。

でも今回一番言いたいのは何が悪と善を生み出したのか?

全ての物事は陰と陽のバランスで成り立っているという話からすると、全ての物事は悪と善のバランスで成り立っているという事になるかもしれない。

しかし、そうではない。悪人がいるから善人がいる。悪い事が起きるから良い事が起きる。というのでは、戦争が起きるから幸せがある。という話になってしまう。

悪と善について深く考えた一人の人物がいた。

『その人物は哲学者と言われていたが、捉えにくい抽象的な事柄に付いて言葉で論理を展開する人ではなかった。彼は当時のキリスト教義をあの世的な教義だと批判し、この世における真理、善、道徳こそ大切だと強く訴えた。つまり今生きている人のための哲学を打ち出した。

ニヒリズムを批判するこの哲学者。ニヒルとは日本語で言う虚無つまり何も無いという意味でニヒリズムは虚無主義と日本語では訳される。絶対価値や真理など無いというのがニヒリズムであり彼はこれを否定していた。そして生きる人々は自分の人生に何か価値や真理を追い求める生き物だと言った。

それが21世紀の現代では金銭と利潤である。そして彼の生きた19世紀までの西欧での絶対価値と真理はキリスト教道徳であった。しかし、彼はキリスト教道徳はありもしない価値を信じ込ませたり、神やあの世といったあいまいなものを通じて道徳を押し求める宗教であると解釈した。そして彼は現代のこの金銭と利潤の追求もニヒリズムから逃げる為の新しいニヒリズムだと批判していた。

つまり彼が言いたかったのは人に押し付けられた道徳や、周りとの幸せを比べるために自分の価値を追求したりするのではなく、自分の生きている世の中で人間としての道徳をみつけていく事が大切だという事である。』

  引用:超訳 ニーチェの言葉  フリードリヒ・ニーチェ 書 白鳥春彦 訳

とかの有名な「ニーチェ」は語っている。

これが彼の根本的な考え方である彼は、悪と善がこのキリスト教の布教とともに大きく変わったと言っている。

そもそも、上流階級の貴族や王族が下々の下層者や奴隷に対して持つ嫌悪感が悪という概念の始まりとされていた。逆に善は生まれた身分や権力的な力を肯定する言葉として使われていた。

しかし、キリスト教の布教により他の人達への行いである「利他的な行い」が善であるとし、「利己的な行い」を悪とした。キリスト教を広めようとしたユダヤ人は当時のローマ人にルサンチマンを抱いていた。ルサンチマンとはフランス語で、力の無い者が有る者に対して持つ恨み妬みや憤りの事である。

支配者層であるローマ人の自分の好き勝手を肯定的に生きるローマ人を悪とし、支配されながらも健気に無欲に生きるユダヤ人を善としたのだ。そして強い者は悪く、弱い私は善いとした歪んだ道徳観念を展開して行った。これこそがニーチェの批判する欲望を否定し自分の生を楽しまない事を善しとするキリスト教義的道徳だった。

つまり、今世間で言われてる悪と善についての多くは当時の虐げられていたユダヤ人が持ってた歪んだ道徳心をキリスト教が広まる事によって広まった考え方であるとニーチェは考えた。

悪い事・善い事なんて言うのはその立場や考え方でガラッと変わる。だからそれを決めつける事はしない方がいいのである。夜が悪いのでもなく贅沢が悪いのでも無いように、全ては悪と善なんかには縛られない。ただ、そこにあるのは裏と表だけが存在し、陰と陽がバランスを取ってるだけなんじゃないだろうか。。。

アカシックレコード

人はどこから生まれて死に、死んでどこへ行くのか。
そんな人類の永遠のテーマに一つの答えを投げかける存在がある。

アカシックレコード。一言で言うと人類の叡智と知恵が全て集約され、それが記録されていると言われるもの。レコードとはよく耳にするレコードの意味で記録するという意味。人類の記憶や知恵などの意識が全て詰まった図書館とも言われてる。

13

アカシックの語源はサンスクリット語のアーカーシャ。
>>>
アーカーシャ( サンスクリット語: आकाश, Ākāśa,Akasha、アカシャ、阿迦奢)は、インドで「虚空」「空間」「天空」を意味する言葉であり、インドの五大のひとつである。
>>>
引用元:wikipedia

まー難しい言葉。要は目で見えるものではなくイメージやったり、物体ではなく意識の中に存在する概念。深くは宗教用語として使われる言葉で、真我として認識もされている。自分と他人が考えたり感じることが違うのは一人一人が魂と呼ばれる真我があるからという事にもつながる。西洋ではエーテルとも訳される。

そんな人間の魂や意識を全般的に表す言葉であるアカシック。それの集合体が記録されたのがアカシックレコード。インターネットにイメージが似ていて例えられる事が多い。一人一人の個人が持っているパソコンが人間の体やとしたら、ホームページとかブログなんかに書かれている全てにあたるのがアカシック。ホームページ・ブログはインターネット上に存在してるけど実体は無い(厳密に言うとどこかのサーバーに保管されてる)。(けど)その実体の無いものがパソコンとかスマホという道具によって一人一人の人が目で見える形になっている。

パソコンが体、人間が魂。というイメージで話を進めていく。(パソコンにはブログ以外に使い方があるけど一例として)パソコンを買いました。まずするのが電源を入れる。これが生まれたばっかりの状態。さらのパソコンは何も出来ない。これが人間で言うと生まれたばっかりの赤ちゃん。ブログを書くにはまだたどり着かない。初めてパソコンを始めた時を思い返して欲しい。インターネットの使い方も文章の打ち方もわからない。これが赤ちゃんと一緒で、喋り方もトイレの仕方もご飯の食べ方もわからない。そこから一つずつ覚えていく。ブラウザでインターネットを見に行く、タイピングを覚えて文章を打つ、エクセルなんかのソフトを使って計算をする。赤ちゃんで言うと言葉を覚えてしゃべる、食べ方を教えてもらっていろんなものを食べれるようになる。

こんな感じでたどり着くのがホームページ・ブログを書くという事。人間で言うと子供を経て大人へ成長し自分が言いたいこと、したいことを言葉なり行動で表現できるようになる。

こっからが本題。そのブログに書いてある内容。インターネット上では検索すればすぐに出る。難しい情報なんかは埋もれてるけど誰かがインターネット上にあげてれば必死で探せば見つかる。っていうのはインターネット上という目に見えない「虚空」に情報・知識が保管されているから(厳密にはサーバー)。

それが人間界にもあると言われてるのがアカシックレコード。インターネットという「虚空」にあたるのが宇宙で、情報・知識にあたるのが人間が経験した体験や意識の記憶の全て。だからアカシックレコードには何があるの?と聞かれれば、人間が太古から今まで生きてきた人もしくは宇宙・地球に存在する人間以外の動植物全てのこれらがあると言われてる。(未来の記憶もあるとも言われていてこれを聞ける、見える人が予言者とも言われてる)

人間の魂はアカシックレコードから赤ちゃんの体に宿り、様々な叡智や知恵を体験と記憶として保存すべくアカシックレコードへ戻っていくと言われている。インターネットの場合は自分でブログやホームページなどでアップロードしないとインターネット上に保管されないが、人間の場合は自動アップロードとも言われている。

じゃーなんで赤ちゃんは全ての叡智が備わって生まれてこないの?という疑問が生まれる。それに対する答えは「全部知ってたら新しい体験が無いから。」人間として生まれた目的はそのアカシックレコードに新たな記憶や意識を持って帰る為。やのに全部知って行ったら何も新しいことが生まれない。そしてアカシックレコードが求めてるのは生身の体で受けた経験からくる感情。嬉しい、悲しい、幸せ、絶望・・・その全て。その中でも求められるのがポジティブな感情。嬉しい、楽しい、優しい、暖かい、愛情、友情、感謝、誠実・・・・。アカシックレコードの成長のために人間という感情を感じることのできる体に魂としてやってくる。そしてそれを持って帰る為にポジティブ・ネガティブ両面の様々な体験が自分の身に起こる。そしてまた帰っていく。

そんなもんあるわけない!!

と一言でぶった切るもよし。あったところで自分には関係ないと思うもよし。ただ、漫画や映画なんかにこの感覚が出てくるものが意外にある。

漫画で言うとシャーマンキングやBLEACHにこういう概念がモロに出てくる。映画で有名なのがマトリックス。精神世界。もしくはインセプション。言えばもっと、もっといっぱいある。

漫画・映画・小説だけじゃなくて歌なんかにもよくある。もしくは歌ができた逸話に出てくる。よく作曲家・作詞家が、天から降りてくると表現する事がある。あれはアカシックレコードにつながった瞬間と言われてる。

でもほんまにあるならそのアカシックレコードにつながればいいやん!!ていう単純な意見が出てくる。簡単につながられへんからみんな苦労してる。なんでつながられへんか?パソコンを初めて使った人と同じ。繋がれる人からしたらやり方を知らないだけで誰でも繋がれるという。

現代は便利になりすぎて、教えてもらう与えられる事に慣れすぎてると言われてる。その結果なんでも教えてもらえないと出来ず、自分から何かを生み出す事が出来なくなってきてると言われてる。職場や周りの部下や友達の言い訳を思い返して欲しい。「そんな事教えてもらってない。」「どうやってやるんですか?」

初めて飛行機作った人は飛行機の設計図なんて今まで無かった。初めてパソコンを作った人は回路図なんて無かった。(これに関しては諸説あって、実は設計図なりを入手してたというのもあるけど今回は別の話)死に物狂いで何かを作り上げたい、成功させたいという思いから偉業は実現されると言われてる。普通の人にいきなり音楽の神からすごい歌詞が降りるんじゃなくて、毎日必死でいい詞を書こうと考え抜いてる時にふと降りてくる。笑いの神がおりてくるのもそう。普段必死でおもしろい事考えてるから降りてくる。運もあるかもしらん。

まずは自分で考える。試してみる。他にやったことがある人がおらんか探してみる。相談してみる。実践してみる。っていうのを繰り返してるうちに自然にできるようになる。不自然にいきなり出来たらただの天才。もしくはそれがその人の自然で才能。

このアカシックレコードには今までの人間の英知・知恵が詰まってると言われてる。そこに辿りつくには一生では無理かもしらん。それにたどり着いた時の景色が見て見たい。そのための道順はさっきの自然にできるようになる道順。

永遠のテーマ。生まれて死ぬ。死にかけた事あるか、身近な人が死ぬ時しかこんな事考えへん。仕事の事、恋愛の事、お金の事。もちろん考えなあかん事はいっぱいある。でもほんまに考えなあかん事は何かを考える時間も大事。仕事でやらかした時の言い訳とか処理。うまくいかん時の悩み。あとで振り返ったらなんであんなしょうもない事であんなに悩んでたんやろ?もちろんその時には重大な問題やったと思う。

でもほんまに悩むべきは自分の、そしてまわりの幸せのために悩むべきやと思う。その為に仕事で悩んでるのか、逆に仕事の為に自分が悩まされてるのか?自分から悩んでいけるように物事を考えていく。そのためには自分が何をしたいか。何を悩みたいか。

ちょっと重いテーマになってしまったけど(笑)もっと気楽に楽しい事をする人生を送ればいいと思う。アカシックレコードにポジティブな感情を持って帰れるように。それで周りの人が幸せで次の世代も幸せになれれば。

色即是空

「色即是空」。色すなわちこれ空。逆に「空即是色」もある。

仏教の大きな教えの一つ。仏教も歴史が長くいろんな解釈がされてるが有名な般若心経にでてくる考え方。

色とは物質の事で、目に見える物事。また欲望の事。

空とはからの状態。無であるという事。何も無いという事。

つまり色即是空は、見に見える全ての物事や欲望は何も無い無の状態である。という教え。すぐに「???」となる。それもそのはず。実際に目に見えて手に触れられて、匂いもする。それのどこが「無」なんやと??

そこには色という言葉が非常にナイスチョイスされてる考え方が説明としてある。「色」という文字通り目に見えるものには色が付いている。逆に目に見えないものには色が無い。じゃー空気や水はどうなるかというと色はないけど実際触れられるし感じる事が出来る。空気や水は限りなく空に近い存在。

科学で言うところの原子。全ての物質には原子がある。原子は小さすぎて目に見えない。これこそが「空」そのものと言ってもいい。空気も酸素や二酸化炭素や窒素などが集まってできてる。その元はO2やCO2などの元素が集まってる。元素の元になってるのが原子。科学が嫌いな人にはわかりにくい話。でも何かの「物」にはその構成してる元に元素があってその元素の元に原子があると言うこと。

原爆というものがある。これは原子を研究して原子の持つパワーを兵器にしたもの。神の兵器とも呼ばれていて、原子こそが「空」であり神であるという考えもある。ちなみに現代の科学でも原子に関しての研究はまだまだ発展途上。これがどんどん研究されていろいろな最新技術が生まれているのが現代。

つまり目に見える物質(色)の元は全て原子(空)であるというのがこの話の本筋。その原子が集まって形となり色を持つ。形を持つものは全ていずれ無くなる。諸行無常と言われいつか「色」褪せてしまう。

真理という言葉がある。本当の、永遠に変わらないであろう考え方の事。そういう意味で言うと諸行無常は真理。太陽が東から昇り西に沈む(北半球で)というのは真理ではない。なぜなら色のある太陽も色であっていずれ無くなるものであるからである。山も川も海も地球も星も宇宙ももちろん今生きている人間もいずれ無くなる。これが真理であると考えられてる。

しかし、空は無限であると言われている。なぜなら無いからである。限りが無いと書いて無限。無い状態のものに限りは無く、褪せる色も朽ちる形も無い。アインシュタインという原子の存在に限りなく近づいた人物がいた。その人物の肉体は当然「色」を持った物質で寿命とともにこの世を去ってしまった。しかし、その残した功績や考え方は今でも色褪せることなく今でも有る。もちろん忘れ去られてしまう可能性もあり何百年、何千年という時が経てば誰も知らないかもしれない。しかし、存在したという事実は消えない。たとえ誰も知らなくても。これこそが「空」であるという事。

人によって同じものが別の物に見える事がある。また言葉が違う国によっては言葉も変わる。これは物質をそういうものであると決めているからである。これは生活便利にするためのもので、現代の世の中では常識である。では、人によって見えるものと見えないものが出てきた場合はどうしよう。半分の人は見える。半分の人は見えない。本当は全く問題無い話である。

なぜなら目に見える全てのものは「色」のついた物質であり、無限では無いいずれ朽ち果てるものである。真理では無く、本当にあるものでなく今そこにあるだけのものである。言い換えると幻でもあるとも言われている。でも逆に当然今そこにあるものには意味があり、命があるからそこに形として存在出来ているから目に見える。命である原子がそこには宿りその形としての使命や生命を全うするために存在している。

つまり大事なのはそこにある物質に対して本質である中身を考える事が大事であるということ。いずれ朽ち果てるそれが何のために自分の人生に現れ、自分の人生を彩っているのかということ。逆に自分という人生の色を知り、本質である魂を見つめ直すために目に見える物や人から学ぶという事。

色即是空から考える物質世界と精神世界。ひいては西洋と東洋。裏と表でありどちらが善いでもなくどちらが悪いでもない。物、それは幻であり今そこにあるだでいずれ無くなるもの。それにしがみつくと無駄な支配欲や物欲が生まれ、本当の魂が求める何かを見失ってしまう。この世に善も悪も無く、ただ無が有を産み、有には無が宿っているという繰り返し。それにたどり着いた人だけが悟りを開けるという仏教の一つの教え。この考え方が全てでは無いし、合わせる必要も無い。ただ自分が幸せに生きるための一つの考え方やツールとして知っておいて欲しいだけ。。

因果応報

原因と結果。その二つの関係は切っても切り離せない。二つの見方がある。元になる原因が結果を引き起こす。逆に思いもよらなかった結果に原因を考えさせられる。卵が先なのか鳥が先なのかわからないのと一緒で原因が先なのか結果が先なのかわからない時もよくある。

なんにしろ大事なのはその原因と結果をしっかり受け止めて考えるという事。

最近CMで話題になっている「結果にコミット」という言葉。もちろん大事な考え方である。コミットとは約束するとか委託するという意味。信頼という概念もあり仕事なり物事がちゃんと行く様にするという事。

ここで大事なのは結果だけにとらわれないという事。結果だけに意識が集中すると本来の目的を見失う事がある。本来痩せたいという思いがある。その思いこそが一番大切であり、その気持ちを強く持ち続ける事によって結果として痩せる事になる。痩せ方も大事だが、なんで痩せたいのかという原因や理由が大事である。

スポーツ選手はよくこの原因と結果を日常的に考え慣れている。例えば野球選手。結果として三振してしまったとしよう。この結果に対して考えた時必ず原因や理由を考える。次の打席に三振しないためには何を改善しなければならないのか?バットを出す角度が悪かったのか、体調が悪かったのか、そもそもバットが細かったのか。あるいは相手のピッチャーの変化球が思ったより曲がったのか。

人生も同じことが言える。なぜ太ってしまったのか、なぜクビになったのか、なぜフラれてしまったのか。これらは悪い結果として現れるため原因をよく考えるだろう。あの時間にケーキを食べたのがダメだった。遅刻しすぎたのがダメだった。ドタキャンしてしまったのがダメだった。

その結果に対して考えても今更変わる事はない。太ってしまった体重はその時点では勝手に減ってくれない。クビになったのに明日会社に行けるわけではない。逆に大事なのはよりよくするためにそこから行動を変えないといけない。食べる時間を考えるか、遅刻しないようにするか、約束を守るようにするか。その結果として痩せたり、会社に復帰したり再就職が決まったり。

ここまではよくある普通の結果に対しての原因の話。今度は偶然や普段の何気ない結果に対しての原因を考える。因果応報の部分。世の中には60億人の人がいると言われている。日本人だけでも1億5千万人ぐらいの人がいると。そんな中今日出会う人というのはものすごい確率である。さらに恋人として付き合ったり、そもそも家族として生活するという事はものすごい事である。

様々な環境や要因の中で今の自分が存在している。自分が今生活をしているというのも結果の一つである。日本人として生まれ、日本語を喋り、企業に所属したり学校へ通ったり。その原因について深く考えた事はあるだろうか?そこには宇宙を取り巻いた因果応報があると言われている。

人はそれぞれ興味のある事も違う。経験したきた物も環境も違う。その結果が今につながっている。そう考えるとなぜその家族に生まれたかというのに原因はないのだろうか?この流れでいくと必ずある。親と先輩は選べないと言うが、すでに原因から選ばれているのではないかと思う。では何の結果かというと前世ではないかと思う。また来世への原因となるべく生まれてるのではないかと。

輪廻転生という概念から言うと人生は続く。そのただの一つの人生として考えれば今は過去という原因の結果で未来という結果の原因になる。だから、いい行いをすればいい行いがこれから自分に巻き起こる。それが今の人生なのか次の人生か何百年後かはわからない。生活習慣を変えると3ヶ月後には結果にである。しかし結果の分かりにくい普段の行動はいつその結果が出るかはわからない。そのわからない結果を必死で考えても時間の無駄である。大事なのは原因や理由を深く考え自分が正しいと思えることを愛を持って取り組む事である。

通りがかりのおあばちゃんの荷物を持ってあげる。そのおばあちゃんが辛くないようにという思いから行った結果。それが原因となり次の結果を招く。そんな感じで全ての物事は原因と結果を元に因果応報の仕組みの中に永遠にループする。

得をしたい。という結果ばかりを求めていても何もはじまらない。そのループが生まれないのである。始まりは愛のある、誰かのために何かをしたいという気持ち。もちろんそれが自分自身でもいい。そこに愛があれば。自己愛も一つの愛で、自分を愛せない人に人は愛せないというのも事実。

逆に憎しみ、恐怖のループというのも存在する。誰かが憎くて奪う、傷つける。それに対しての報復を受ける。また報復する。また報復される。このループを断ち切るには許すという愛しかない。自分が損するかもしれない。でも許すという犠牲がないと終わらない。

戦争は報復しか生まれない。日本が唯一の原爆の被害国でもあるのに原爆を持たないという国と表明したことはすばらしい愛であると思う。のに、原発はたくさんあったり、裏で何の研究をしてるのかというのは疑わしいけど。。。

考えすぎはよくない。けど今、自分を取り巻くふとした出会いや現象の因果を見つめ直して欲しい。逆にこういう出会いや出来事が起きて欲しいと強く願えばそれが結果として起きる。世の中は想念が結果として起きる3次元であるからである。

雄弁は銀、沈黙は金

「speech is silver, silence is golden.」

イギリスの思想家トーマス・カーライルによって広められた言葉。

もともとはカーライルがスイスで見たドイツ語の碑文であったらしい。

意味は、饒舌に喋り言葉で人々に影響を与える事は価値のある事だが、言葉にせず黙っておくべき時に黙る事の方がより大事であるという事。

日本の言葉に、「口は禍の元」「言わぬが花」というものもある。

言語という意思を伝えるツール。相手に自分の考えてる事を伝える一番わかりやすいとされている方法。しかし、その言葉によって誤解や勘違いを生み、問題や事件を引き起こしてしまう時がある。

何事もそうだが、すべての真意を伝えるというのは不可能であると思う。

本当に思っている事を伝えるには、言葉も大事だがそれ以上に態度や雰囲気という部分の方が大事。という事を一言に言う言葉では無いかと思う。

「目は口ほどにものを言う」という言葉もあるように、口以外にも相手に意思を伝えるものがある。しかし、言葉という共通理解するためのツールが世界中で広がった現代。その言葉に頼りすぎてるきがする。

本当に心が通じ合い、相手の考えや気持ちを理解したと思える時は言葉は不要であるように思う。

損や得という意味で口数を少なくしろ、という意味で沈黙は金と言った部分もあると思う。

最近思うのは損や得を通り越して、言葉でない意思の疎通のスキルや能力を上げる時代に来ているのではないかと思う。

グローバルな時代になり、言葉の通じ無い国に行く事が普通となった。トラブルはありながらもなんとか目的を遂げたり、無事に帰ってきたりしている。本当に大事な事が言葉では無いという事の象徴では無いかと思う。

冒険家、植村直己は様々な偉業を成し遂げた。世界5大大陸それぞれの最高峰の山頂到達。犬ぞりでの単独北極点到達。アマゾン川を筏で渡りきるなど世界中のさまざまな人からその偉業をたたえられている。

北極点の犬ぞり到達のためには、犬ぞりの技術をアイヌの人々に教えてもらわなければならない。他の民族と交流の盛んではないアイヌの人々。その人々とのコミュニケーションは大部分が言葉では無かった。

大切なのは本気で挑戦し、諦めない事。そして人に優しく他人を思いやる事。という植村の考え方。マッキンリーの冬期登頂に成功した後、下山途中に音信不通となった。植村を直接知る人たちはその偉業を讃えるよりも、その人柄を惜しむ。あんなにいいやつは他にいない。と。

好きなアーティスト Jimmy Cliff のこの歌を紹介して終わる。
「Action speaks louder than words」

何を言うかも大事やけど、それよりも大事なのは何をしているか。

ネーミングの不思議

ネーミングの不思議

名前とは誰が決めるのだろうか?物や存在、概念に名前をつける。それにより人々が共通理解することができる。しかし逆に誤解や思い違いを起こす事もある。

どこがスタートでもどこがゴールでも無い水という存在。風もそう。雲もそう。ただただそれに名前が付いているだけ。人間の都合で。

雲ができ、雨が降り、地下水や池となる。川になり河になり河口が出来、海に流れ出る。水蒸気になり雲に戻る。だが雲がスタートでも無い。一つの水という存在。その水がその時、その場の様々な要因によって姿や形を変える。それを人間が勝手に名前をつける。

モジャコ→ワカナ→ハマチ→メジロ→オオイオ→スズイナ→ブリ。
ブリは言うかもしれない「俺はブリじゃ無い。俺だ」と。

赤ちゃん→幼児→子供→中学生→高校生→大学生→青年→大人→中年→老人。
老人は言うかもしれない「俺は大人だ」と。

名前を決める事で日常の生活は限りなく生活しやすくなった。名前が無いものがあると困るほどに。名前を決める際に重要なのが形。その形をつくる要因になる原動力がそこにはある。

ブリがブリになるには年月と栄養。赤ちゃんが老人になるにも同じ。水が河になるには地形や年月が。形が変わることによって名前が変わる。その形が変わるもとの原動力。

人間社会にも原動力という言葉がよく出る。成功者へのインタビューで何がそこまで駆り立たせる原動力になったのですか?と。答えは様々だと思う。でもその基本にあるのは、その人が何かを感じて想いを募らせ、その想いを形にしたから成功した。

形と想い。想いには名前があり、形に現れるとまた名前が変わる。二人の愛という想いが子供という名前に変わる。一人の憎しみという想いが一つの死体を生み出す。死んでいるにもかかわらず。いろいろな名前の元には人々の想いがある。その想いが単純に便利にするためにただただつけた適当なものでは無い気がする。

では何かを感じたその部分はなんだろう?

それが外からの力では無いかと思う。